自己紹介

はじめまして、勝山俊輔(かつやましゅんすけ)と申します。
静岡県清水区でITコンサルティングとして開業いたしました。

今回は、少し長めではあるのですが、
私のこれまでの人生ストーリーを冒険仕立てに書き綴ってみましたので、
お付き合いいただけますと幸いです。


冒険と言っても、いろいろあると思うのですが、私の冒険は結構壮絶です。

死にかけ体験を何回もしていて、
ハラハラドキドキの、
たまにクスッと笑えるストーリーだったりします。

ちょっと先走ってお伝えすると、

右か左かも分からない小学1年生が冒険旅行したり、
バックパッカーになって旅の最中に銃剣で殺されそうになったり、
オーストラリアの荒野でおかまと猛毒蟻に食われそうになったり、
ウインドサーフィンで海のもくずになりかけたり、、。

ただ、こうした若き日に手に入れていた冒険心は、会社員になってからは、忘却の彼方に葬り去ってしまったんです。

会社員として、早くの段階から管理職に登用され、
役員と部下の中間で挟まれるストレスを感じる日々でした。

「何だか、、居心地が悪いな。。」

結構しんどい日が続きました。
心労と暴飲暴食が原因で体重が90kgになったこともありました。

そんな私が今では、独立起業をして「冒険」を
追い求める生活を取り戻すことができたのです。

毎日筋トレに通い、笑顔で健康的に過ごすことが出来ています。

もし、あの時に決断をしていなかったら、
日々ストレスと戦い、体重は100kgを超え、
笑顔が無い不健康な日々を過ごしていたかもしれません。

考えるとゾッとします。

冒険は身近にあったんです。
そして、まさに冒険が私を育ててくれていたんだということを忘れていました。

冒険は、私の成長の源泉です。
そんな冒険を大切にしている私が今、やっているビジネスは以下の通りです。

・現在のビジネス一覧

 Web制作(ホームページ、ECサイト)

 マーケティング・コンサルティング(3社)

 ITカフェ・バーOutputの経営

 地域住民向けのIT勉強会の開催

それでは、私の自己紹介をさせていただきたいと思います。
少し長文にはなりますが、お付き合いください。

 静岡県静岡市清水区にて両親、兄、私の4人家族の次男として生まれました。

父親が俊雄、叔父さんが孝輔の2人から1文字ずつもらい、
俊輔と名付けられました。

父親は次こそは女の子が欲しいと望んでいたようです。
なので、小さい頃は女の子のように買っておいたスカートを着せられたり、
髪の毛を伸ばして結っていたとか。

 世界傑作童話シリーズの『エルマーのぼうけん』に出てくるエルマーが大好きで、
今思えばエルマーに強い憧れを持っていたように思います。

エルマーは礼儀正しく、誰にでも親切です。
勇気と優しさを秘め、何事にも真っ直ぐに進んでいく少年です。

私は彼に強く憧れていました。

この本を通して語られている「冒険」が私の価値観の礎を築いてくれたバイブルであり、
「冒険」は私の人生と切っては切れないものになってきます。

そのため、私は冒険が大好きであり、
もっと具体的に言うと、常にワクワクした気持ちを追いかけたいと考えています。

そういう冒険の実体験は、幼少期から身近にありました。

海外出張が多かった父親から外国の話を聞いたり、
小学1年生の時に兄と一緒に行った冒険旅行のワクワクドキドキといった感情は、
今でも昨日のことのように鮮明に覚えています。

振り返ると、
アラフォーから独立起業をしたこと、
会社員時代には色んな職種を経験したこと、
海外での一人旅など全てが冒険でした。

冒険するのはちょっと怖いけど、
やっぱり楽しい。

第1章 兄との冒険旅行

「おじいちゃんや、おばあちゃんのところへ、本当にたどりつけるのかな、、おかあさんと離ればなれになるの嫌だな、、」

 その日は朝から、ドキドキしていました。
今日から鈍行列車に乗って静岡から東京稲城市
の祖父母の家まで冒険旅行。

5つの上の兄と2人だけの初旅行です。
小学校1年生の夏休みでしたので、
入学からすぐのことでした。

まだまだ幼い少年でしたので、
正直言えば、行きたいワクワクの気持ちと行きたくない
不安の気持ちが入り混じっていたように思います。

道中、緊張状態Maxの私は列車の中で歯が痛くなってしまい、
兄をすごく困らせてしまいました。その時の兄の顔を鮮明に覚えています。

兄は私よりも、もっと不安であったろうと思いますが、

「大丈夫だよ!お兄ちゃんが付いているから」

兄も兄で私の不安を取り除くのに必死でした。

当時も今もある「はじめてのお使い」というTV番組を文字って
「はじめての冒険旅行」と言って送り出した両親は
一番不安だったでしょう。

「お兄ちゃんと冒険旅行に行っておいで。
分からなかったら、駅員さんや近くの大人に助けを求めればいい。」

と父からは言われたような気がします。

両親は心配する気持ちよりも、
一番経験させたかったことは何だったのか。

今考えれば、失敗を恐れず、まずは行動してやってみること、
実体験は何ものにも代えがたく、経験は何よりも勝る
というメッセージを息子たちに送りたかったのかもしれません。

兄、私ともに無事に祖父母の家にたどり着くことができました。

この記憶を振り返る時、
到着後に食べた梨の甘さを思い出すのでした。

こうした幼少期の成功体験は

「冒険旅行ができたのだから、何でも挑戦してやるー!!」

といったマインドを芽生えさせ、

小学校6年間の中で学級委員長に立候補したり、
児童会(生徒会のようなもの)の副会長を務めたりなど、
とにかく何でも行動して、経験を積むことができました。

両親に本当に感謝ですね。

「一歩踏み出せば、冒険が始まる」 
ちい散歩

第2章 部活での格上との試合

中学からは、バスケットボール部に所属して仲間と一緒に汗を流しました。

仲間全員がバスケ未経験者で0からのスタートでした。

それでも当時清水市内(現在の清水区)で2位という
輝かしい成績を残せたんです。
振り返ってみると、実はここでも新たな冒険を試みていたんです。

私たちチームは未経験者で構成されているので、
実績も自信も無かった。
練習はめちゃくちゃがんばるんだけど、やはり勝てない。

「なんで勝てないんだ、、、くそっ、悔しい、、、」

そこでチームのキャプテンだった私がコーチと仲間に、
強い高校生と練習試合をやりたいと提案しました。

コーチは二つ返事で「Yes」でしたが、
仲間はあまり乗り気ではありませんでした。

「なんで強くなるチャンスがあるのにみんな嫌がるんだ、、、
このままじゃ負け続けるだけじゃないか、、、」

私には格上と試合をすることで、
チームが好転するのではないかという思いがありました。

ただ明確な根拠も無かったため、
仲間の一人ひとりを説得するのに苦労した覚えがあります。

皆をリードしていくために、どのような声がけをしていけば良いか、
バスケットボールにかける熱量に応じて、
かける言葉を変えて話し合いをしたような記憶があります。

「打倒、清水七中!優勝して、もっと上を目指そう」

「バスケで高校推薦もらえるくらいに強くなろう」

「バスケうまくなれば、もっとモテるはず!」

「勝ったら、先生がうまいもん食わしてくれるってよ。」

所謂、根回しですね。
当時、言葉は知らなかったですが、人の立場や気持ちに立って、
物事を考えることは得意でした。

最後は皆が納得してくれ、高校生と試合をすることになりました。

こうして試合をすることになった訳ですが、
挑んだまでは良かったのですが、当初はこてんぱんにやられてしまい、
さらに自信を無くしてしまったのです。

「体力も持久力も違いすぎる、、バスケ以前の問題やん、、無理だ勝てん。。」

ただ、2回3回と試合を重ねるにつれて、
時間帯によっては、良い勝負ができるようになっていくようになりました。

「なーんだ。慣れてくれば、結構へっちゃらじゃん!これが普通と思えばいいんだな!」

体のあたり、シュート、スピードの強さ・速さの基準
が変わっていく感じです。

個人ごとのレベルが上ったと言ってしまえば、
それまでなんですが、強さ・速さの基準が1段階、2段階と
階段を上がっていくような感覚です。

「俺たち、成長してる!まだまだ強くなれるぞ!やっぱり格上と戦ったのは正解だった!」

マインド面においても相手が格上だからとか、
負けてもしょうがないとか、思っていたらいつまでたっても
勝つことはできないと思うようになってくるんです。

試合では自分も相手も勝つために必死になっていて、
勝負に格上、格下の差は無いんだと
精神的に強くなっていったことを覚えています。

この経験が、格上と勝負することで自分たちが持っている基準を
上げることの重要さと新しく未知の物事に取り組む冒険心
を芽生えさせました。

「変化は冒険」 
デイル・ドーテン

第3章 高校時代はアルバイトに明け暮れて

「高校になったら、交友関係を広げて、自分の知らない世界を知ってみたいなー。」

「ちょっと、大人な社会を覗いてみたいなー。」

こんな漠然とした思いを抱えて、
高校に入学したような記憶があります。

中学時代にバスケットボールは完全燃焼してしまった勝山少年は
高校からアルバイトを始めました。

高校近くのファミリーレストランでコックとして働いたんです。
アルバイトに同級生は少なく、ほとんどが大学生でした。

高校生でありながら大学生と仲良くしていたので、
高校生にしては考え方が少し大人びていたかもしれません。

あらゆることが新鮮で、乾いたスポンジが水を吸うように、
大学生の思考を吸収していきました。

自分にとって未知の世界への扉であり、
全てが刺激的だったんです。

考え方も人との接し方も、
どんどん大人になっていく
自分に成長意欲のようなものを感じていました。

「年上と話すのって楽しい!冒険みたいなワクワク感がある」

アルバイトをすることで自分で使えるお金を増やし、
自分の裁量を大きくしていことを楽しんでいましたね。

おしゃれに目覚めてみたり、美味しいものを食べたりと、
お金を掛けることでしか味わえない面白い経験がある
のだと気づくことができました。

一方で、お金を稼ぐことはこんなにも大変なことで
苦労の多いことなんだと思うようにもなりました。
親の有難みを心から感じた瞬間でもありました。

高校の卒業式では卒業生代表として答辞を読んだこと
もすごく良い経験になりました。

単純に目立つのが好きということもありますが、
経験が無いことに対して飽くなき挑戦をしていくことに
喜びを覚えていたのだと思います。

実は答辞の最後に相田みつをさんの詩を朗読したんですね。

確か内容は、

一人ひとり生まれたからには、
人生をかけてやり通す「仕事」がある
という内容だったと記憶しています。

「答辞良かったよ。」

「あんな答辞は初めて聞いたよ。感動した!」

「めっちゃ泣いたよ!感動的だった。」

結構、称賛の嵐だったんですよ。
すみません、ちょっとした自慢です。

けど、こうした経験こそが自分の人格を作っていくんだ
と最近感じるようになりました。

人から誉められるって気持ちいいですよね。
ありのままの自分を肯定されているようで。

だから、私の人への関わり方の基本は、
人の良いところを探して誉めるスタンスなんです。
お互いが笑顔でいることを一番に考えます。

ストレスフルな関係や笑顔が無い関係は、
めちゃめちゃ嫌だし、避けます。

フリーランスとして、冒険を追い求めつつも、
こうした価値観に基づいて、日々行動していきたいと思っています。

「笑顔には、人の心を明るく、柔和で好意的にさせてくれる偉大な力があります。
従って常に笑顔を心がける人の未来は、ポジティブに飛躍するようになるのです。」
ジョセフ・マーフィー

第4章 ウインドサーフィンで死にかける

さて、大学は九州南の果て鹿児島大学へ入学しました。

政治・経済が好きだったこともあり、専攻は法文学部経済情報学科でした。

幼少期から父親の影響でアニメやお笑い番組を一切見せてもらえず、
NHKやニュースを見て育ったこともあり、
身近に政治・経済がある生活をしていました。

今でも海外に行ったり、
初めていく地方ではローカル新聞を購入して
興味を持って読んでいます。

 大学に入ったら新しいスポーツを始めたいと漠然と思っていて、
大学の校舎内にあった各部活の立て看板を隈なく見て回りました。

そこで声を掛けられたのがウインドサーフィン部だったのです。

先輩たちに初めて海に連れて行ってもらい、
ウインドサーフィンを教えてもらった時は、
とても感動的でした。

目の前には噴煙を上げている桜島、
きらきら光る透明度の高い海、
野生のイルカが泳いでいる姿、

何だか日本にいる気がしませんでした。

「こんな所で、ウインドサーフィンができるようになったら、、すっ素敵やん!!」

静岡に住んでいた時も家の目の前が
広大な砂浜と海に囲まれていましたが、
それとは違う美しさがあって、
鹿児島の大自然に感銘を受けました。

 その大自然の壮大さと、やっぱり人間は自然に勝てないと思ったエピソードがあります。

それは強風吹き荒れる日でした。
友人といつもの海でウインドサーフィンを練習していました。

あまりの強風で友人とは、はぐれてしまい、
一人海を滑走していました。

「うわーー、、飛ばされるーー!」

その瞬間、さらなら強風に煽られ、
ボードごとひっくり返ってしまい、
体も空中を舞うようにふっ飛ばされました。

気づいたときには、恐らく30分ほど時間が経過していたと思います。
自分の道具に強く頭を打ち付け気絶をしていたのです。
頭からは血が流れていました。

「いっ痛い、、うわ〜頭ジンジンする。えっ血でてるわ。」

ライフジャケットを身に着けていたことと、
夏の温かい海だったことで不幸中の幸いではありましたが、
命を取られることはありませんでした。

もしライフジャケットを着ずに気絶してたら、、、

自然を前にして人間は無力であることを身を持って体験しました。

この実体験は、どこか利己的だった自分への戒めだったような気がしてなりません。
この日から、謙虚に誠実に生きていこうと誓った日でもありました。

「冒険とは、生きて帰ることなのである」
植村直己

第5章 オーストラリアへ留学して、度々死にかける

私は、オーストラリアに1年間留学をしました。
留学以前にも父親の影響もあって、海外に強く憧れを抱いていたので、
バックパックを背負って旅をしていました。

アジアを中心に、中国、タイ、ベトナム、カンボジア、ラオス、インドネシアなど滞在しました。

留学の話から横道にそれてしまいますが、
旅は自分なりの流儀があって、
滞在先で必ず現地の人の生活を実体験するということをやっています。

例えば、タイでは現地の人しか乗らない白タクに乗ったり、
ベトナムでは大学生に日本語を教える代わりに、
ベトナム学生の流行の遊び方を教えてもらったり、
インドネシアではローカル用の床屋で英語も通じず,
手振り身振りで髪の毛を切ってみたりしています。

単純にわくわく、ドキドキのスリルを味わって快感を得たい
という気持ちがあるのですが、
自分の中では「挑戦ハードルの高さ操作」と命名しているのです。

そうそう、挑戦ハードルの高さの中でも、
極めて高いハードルは「死にかけ体験」なんですよね。

死にかけ体験は何度かあるのですが、
その中の一つで、2005年にベトナムからカンボジアへ陸路で国境を越えて、
アンコールワットを見に行ったことがあったんです。

歩いて料金所のような出入国審査のカウンターを通るのですが、
いきなり銃剣を持った門番に

「រង់ចាំបន្តិចវាមានចលនាហើយ」

何語か分からない言葉で、
しかもめっちゃ早口でまくし立てられました。

「いやや。こういう時は毅然とした態度で。日本男児たるものびびっちゃだめよ」

「はいはい。俺は脅しには屈しないよ。そして金は渡さないよ。」

そんな気持ちで余裕な顔して通ろうとした瞬間、

銃剣の尖った先端が、私の首の近くまできていました。

「やばい、、、殺される。」

一瞬にして立ち止まり、
ピクリとも動いたら銃剣で刺されると思いました。

門番は私をボディチェック、、、そして「行ってよし!」のような合図。

「たすかった〜、、よかった〜、、正直ちょっとチビッたわ〜。」

めちゃめちゃダッシュして門番から逃げたい気持ちを抑えて、
さも何も無かったように歩いてカンボジアへ入国。

「門番よ、もう話しかけないでくれ、、心臓が飛び出そうだ。てか、もう出かけている。。」

今思い出しても、門番は何をしたかったのか分からないです。
当時は東南アジアへの入国は、入国審査官が外国人相手にワイロ要求が
横行していましたから。その1種かもしれませんね。

まぁ、こんな貴重な体験しているんだから、○○をやること何て楽勝だ!とか、
あの体験はまじで死にそうだった!ということを経験しておくと、
どんな困難がきても割と平気なんですね。

現地でしかできない体験は、ハードなことが多いんです。
こうしておくことで、挑戦ハードルはめちゃくちゃ低くすることができる。
命取られるか否かは、日常生活でそうはないですからね。

ちょっと理解し難いかもしれませんが、そんな感覚なんです。
結構強靭な変態メンタルを手に入れています。

さて、話を留学に戻します。
なぜ、オーストラリアを選んだのかという理由ですが、3つあります。

1つ目は英語圏であること、
2つ目は大自然があること、
3つ目は物価が比較的安かったことです。

理由を並べてみると結構堅実な理由ですね。
今までのストーリーからはちょっと考えられないくらい。

これ、自分自身を語る上でキーワードになるかもしれませんが、
冒険する時はとことん冒険、固く考えるところは堅実にという性格です。

だから、入国ビザについては、大学院の担当教授には学生ビザを進められましたが、
やはり冒険をしたくてワーキングホリデイビザにしたり。

一方で、まずは現地入りしたら、英語力アップだ!と考えて語学学校通ってみてたり。
結局、つまらなくなって1ヶ月で辞めて車を買って大陸1周の旅をしたんですが笑。

さて、オーストラリア留学はまさに冒険の連続でした。

実は到着した日に、おかまに◯られそうになりました。
まじで危なかった。

お金が無かったので、やすい航空チケットを買いました。
入国が夜中の22時過ぎ、メルボルンの市街に出れたのが
多分24時近くだったと思います。

空港から市街地に出て、まずは宿を探そうと街に出ました。
ただどの宿もいくら探しもフルブッキングとのことで、
宿が見つけられませんでした。

途方に暮れて、一度バスターミナルまで戻ったんです。
ここまでは旅のあるあるですよ。

仕方ない、必殺「野宿の技!ベンチで寝れば怖くない!」を繰り出して、
日本から持ってきた寝袋を、徐ろに取り出して、
寝床の準備をはじめました。

しかし!!ここで問題発生。オーストラリアのベンチって、
野宿できないように、座面が区切ってあるんですね。
これを計算に入れてなかった。

「仕方ない。地面で寝るしか無いな。。」

入国は7月だったので、オーストラリアでは真冬です。
真冬のメルボルンは平均5度位までいきますね。
本当に寒かった。

「よし、今日の寝所確保!おやすみなさい。また明日活動しよう、、」

と思っていたら、
トントンと私の寝袋を叩くではないですか。

「誰だ!けど、めんどくさいから、そのまま寝ちゃおう。」

疲れもあったので、シカトしたかったんですけど、
トントンが段々強くなっていくんです。

「嫌な予感するな〜。」

だいたいこういう時の予感って当たるんです。
ひとまず、眠たいふりをしておきてみます。

「っん!」、思わず2度見、「いやいや〜!おかまやないか〜い!!」

もう、典型的なおかまさんなんですよ。
あの〜お笑い芸人のHGみたいな格好してるんですよ。
けど、顔はおっさんなんですよ。

しかも、めっちゃしつこい。

ちょっと早口の英語で、全部はわからなかったのですが、
どうやらアジア人が好みらしいことと、
家にはあったかいスープがあるからと言ってました。

「No! Go away!」をとにかく連呼しました。

とぼとぼ去っていくおっさんの後ろ姿を見ながらも、
安堵ですぐに寝つくことはできました。


今思い返せば、よくもその場で寝れるなと、、。
おっさん返ってきて、寝込みを襲われていたら。。ぞっとしますね。

初日から結構ハードな経験をしましたよ。


どうやら、そのおっさん、夜な夜な現れては、
アジア人に声かけまくっていたそうです。

こうして前途多難なオーストラリア留学がスタートしました。

車を買ってからは、定住せずにいろんなスポットを
ヒッチハイカーを連れて巡りました。

先程の陸路国境超えの話と同様に、
九死に一生を得た体験が多くあるのですが、
その中でも特にエアーズロックに行く道中のはハードでした。


なんと、アウトバック(荒野)のど真ん中で車が

オーバーヒートで止まってしまったんです。

オーストラリアのアウトバックでは獰猛な動物よりも猛毒蟻がたくさんいて、
寝て起きたら大量の蟻が人形(ひとがた)に群がっていることが
ニュースになっていたります。


オーストラリア人に嫌というほど脅されていましたので、
車が止まった時はオワタと思いましたね。

「うわー、、やっちまった。まさか、こんな荒野でオーバーヒートするとは。。
まじ映画しか見たこと無い状況やん。。」

しかし!!捨てる神あれば拾う神あり!!

その道に通りかかった現地オーストラリア人に助けてもらいました。
生きてて良かった。

「神降臨、、めっちゃ酒の匂いプンプンするけど、
この匂いまでも神様のニオイに感じるわ〜!」

助けを得て、無事目的地だった、エアーズロックを見ることができました。
まぁ、自分の車でエアーズロックに乗り付ける奴はいないでしょう。
いい冒険でした。

ワーキングホリデイでは、こうした冒険をしつつも、
現地で仕事ができます。
私はワインの為の葡萄畑で仕事をしました。

仕事を求めて集まる各国の若者が多くいます。
実はこれが、めちゃくちゃ楽しいんですよ!!

チームに選別されて働くのですが、
私は中国、韓国、ブラジル、イタリア、ドイツ、カナダ、オーストラリアの混合チーム。

仕事に対する考え方も国が違えば千差万別で、
真面目にやる者もいれば、
如何にサボるかしか考えていない者も。

生活を共にしますので、各国の若者が時を同じくして集い、
酒を飲んだり、お国自慢をしたり、自文化を伝え合ったり、
本当に毎日が楽しかった。

もちろん、コミュニケーションは英語なのですが、
英語力が鍛えられるのも当然なんですが、
自分の考えや気持ちを瞬時に言語化していく鍛錬もしたような気がします。

あと、英語の構文って考えると、
めちゃくちゃロジカルにできているんです。

シンプルに、私は◯◯をした。主語と述語を意識する。
接続詞で論理を明確に。
こうすると、説明が簡潔でわかりやすい。

文章に無駄がなく、理解というゴールまでの道が最短のような気がします。
だから、外国人との交流は楽しくありつつも、
ロジカルシンキングの鍛錬とも思っています。

日本でも、困っている外国人がいたら、めっちゃ声かけます。
そう、私がオーストラリア人に助けられたように。

「人生最大の冒険とは、自分の潜在能力への旅である」 
マイケル・ウィン

第6章 辛かった会社員時代

留学生活を終え、大学院を無事卒業し、
父親の病気のこともあり静岡に戻り、就職をしました。

このまま鹿児島に残って就職をしようかなとか、
再度渡豪して起業してみようかなど、いろいろと迷った時期ではありましたが、静岡でサラリーマンとして働くことを決意したんです。

また起業したいと思った時に、
サラリーマンの経験は必ず活かせるはず!
と感覚的にそう思い、突き進みました。

サラリーマン時代においては、
いろんな経験を積むことができました。

異動のテンポが速く、13年間の在籍期間中、10部署を経験しました。
一番短い部署で8ヶ月というものもありました。

営業、管理、総務、経営管理、経営企画、新規事業、人材確保、現場統括
などの業務を行ってきました。

特にプロジェクトがある所に勝山ありという感じで、
会社にノウハウが無かったり、
誰も経験したことが無い役回りがまわってくるといった感じです。

会社が蓄積してきたノウハウを参考にできない、
0→1をやっていく「生みの苦労」みたいなものはありました。

ただ、これまでの経験上、挑戦へのハードルは著しく低くなっているし、
そりゃ死にかけた経験めっちゃしてきましたから。
それと比べれば、何のこともありませんね。

未知なるものへの漠然とした不安や恐怖との
共存の仕方も心得ていたので、何事も楽しんで取り組むことができました。

会社員時代の特に印象に深い経験は、
会社の立ち上げをしたことです。


会社としても初めての試みで、
合弁会社へ出資をしたんです。

その会社は、出資会社から出向という形で人材をまかなっているため、
社風も違えば、会社ごとの立場も違う、
物品を1つ買うことでさ決めるのが大変でした。

考え方が入り混じった、混沌した環境、
どこかで経験したことがあるなと思ったんです。


そう、ワイン農場での混合チームです。

「嘘みたいに、行く先々で今までの経験が役立っているな、、」

同じ言語だし、文化や育った環境も似通っている、同じ日本人。
ワイン農場での経験が活きた瞬間でした。

一方で、会社に勤めてから、父親の病気、結婚、子育て、仕事の激務化、
怒涛の日々を過ごしてきました。

特に、経理部署へ異動した際は、地獄をみました。


経験したことがある人は、ピンとくるかもしれませんが、
損益計算書、貸借対照表が全くわからない者が、
明日から決算業務をやってくれと。

強靭なマインドで何事も乗り越えてきましたが、
この時ばかりは挫折しました。


体重も平時は60kg後半で推移していますが、
心労と暴飲暴食で90kgまで増加しました。

この1件で、会社にとって自分の存在は何なんだろうかと
疑問を持ったのも正直なところです。

そして、今までの冒険に比べたら
なんとも刺激のない日々も過ごしていたことも事実。

窓を眺めながら「外に飛び出て冒険したい」といつも思っていましたし、
このままだと自分はきっと後悔するのではないかと感じるようになったんです。

年齢を重ねるごとに、この思いが強くなった。

ちょうど3年前くらいから、もし独立起業をするのであれば、
自分にどんなことができるのかと考えるようになったんです。

第8章 アラフォーでフリーランスへの挑戦

当時はお酒も大好きで、晩酌は毎日していましたが、
独立起業を考えた日をきっかけに晩酌を絶ちました。

これからの時代はITに需要があるだろうと考え、
Web制作の技術を身につけるべく、オンラインスクールに通いました。

HTML/CSSは呪文のようで、
初めは何を言っているやらさっぱりでしたが、
社会人になってからも本を読むことは継続していました。


学習習慣があったので、
勉強そのものは苦痛ではありませんでした。

身につけたスキルは、アウトプットしてこそ、
自分の血肉になる!との思いから、
複業として知人や友人、中小企業のホームページを作らせてもいただきました。

こうして独立起業のタイミングを伺ってはいたのですが、
安定収入の退路を断つことへの不安、
周囲の理解や会社への恩義など整理がつかず、
もやもやの日々を過ごすことになります。

実は起業独立をした大きなきっかけがあるんです。

それは、「父親の死」です。
父親は10年来、闘病生活をしてきました。

元気で豪快かつ好奇心旺盛の父親も病気の前では
ただ一人の無力な人間なのです。

父の死は大きなショックではありましたが、
ただ「後悔の無い人生」を生きなさいという父からのメッセージ
でもあったように思えるのです。

また、起業準備の中でいろんな挑戦をするようになってきたことが、
冒険心に火をつけ、独立起業したいという気持ちを加速させる上で、
とても重要なことでした。

平日は会社の行く前の朝2時間、
帰宅後の3時間を学習する時間にあてて、土日祝日は8時間以上、
もう本当に狂ったように勉強しました。

こうして、懐かしい記憶と共に冒険心が蘇ってきたんです。

「今の自分、毎日ワクワクドキドキしている!」

小学生の時に兄と旅行したような感覚、
国境で銃剣を突きつけられチビッた体験、
オーストラリアのアウトバックで神が降臨した時の何とも言えない安堵感、
ウインドサーフィンで海のもくずになりかけた恐怖。

あの時の気持ちと同じ。

だから、この感覚をもっともっと味わいたくてのめり込んでいきました。

もう後には戻れないし、
戻りたくないと感じました。

ワクワクドキドキの冒険をし続けよう。
やはり、自分の人生のテーマは冒険だったのです。

「今からでも遅くはない!アラフォーでも起業に挑戦してみよう!!」

「難しい仕事や未知の仕事には、好奇心と冒険心をそそられる」 
やなせたかし

第7章 理想の現在

IT Cafe&Bar Output店内の様子

毎日がワクワク・ドキドキの冒険をしている
気分で凄く幸せです。

常に新しいことに挑戦をしたり、
自分の裁量で自由に働けています。

好きな人と関わって、
お互いが笑顔になる関係を築けているんです。

思い描いていた最高の人生を
手に入れることができました。

あの時、独立決断をしなかったら、
このような生活を手に入れることはできなかったと思います。

現在、私は生まれ育った故郷の静岡市清水区で、
街の中心部にカフェバーを活動拠点として設け、
起業家や地元の方々にITに関わる相談を受けています。

その活動を起点に、Web制作のお仕事や
マーケティングのコンサルティングをしています。

昨日も地元経営者から、
運営しているカフェでITに関する相談を受けました。

「目から鱗です!」

「ちょっと、鳥肌たっちゃいました。。もっと教えて下さい」

といった感謝していただけるのは、
最高に気持ちがいいです。

自分が携わることで、喜んでいただける姿を見ると、
本当に幸せな気分になります。

今後はサラリーマン時代に得意だった経営管理のスキル
これまで培ってきたコミュニケーションスキル
これらを活かして経営コンサルティングも行っていきます。

コンサルを通して、直向きに取り組むクライアントを
サポートし続けたいと思っています。

将来的なビジョンは、まずは自分が冒険をし続けること。
そして、何かに挑戦したい人の支援をしていきたいです。

もっと、地元の若手が起業しやすい環境も作っていきたいですね。


そのためには先人が楽しく、
笑顔で仕事をしている背中を見せないですよね。

冒険は、今まさに始まったばかりですから。

私の自己紹介にここまで、お付き合いいただきまして、
本当にありがとうございます。

この文章はこれをもって、終わりとなりますが、
勝山の考え方やマインドにもう少し触れてみたい!とか、
どんなビジネスをやっているのか興味あり!という方は、
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LINEでは、より深いマインドや考え方の発信をしたり、
ビジネスのことなど発信をしていますので、よろしくお願いします。

それでは、またLINEでお会いしましょう。

「冒険こそが、わたしの存在理由である」 
パブロ・ピカソ